車輪の徒然なるままに

生活の中で気づいたことをストレートに書き綴ります

自己研鑽で心がけること

自分自身が標題のことをやるにあたり、気づいたことだったり、まわりの人を見て気づいたことだったりします。

今日、新しいことを学習したいと思ったときに手に入れられる資料はいくらでもあります。
(「こういう良い時代になり、恩恵に肖って期待してしまう人が増えた気がする‥‥」という思いを書きたい記事でもあります)

ネット、書籍(実質無料のものもあったり)、学習用のカリキュラムを提供してくれるような業者(ビデオの教材だったり、通学形式の教室もある)、さらに、専門分野に精通しているスゴい人とネットなどで知り合って、結果として自分自身が身につけたいことを伝達して頂けることもあります。

正直、ここまでは敷居がそんなに低くない。

しかし大変なのが、このあとで…。

例えば、手順が書いてある資料が手に入ったとして、その通りに実践してみただけでは、その資料の内容しかできるようにならないんです。

手順が書いてある資料に基づいて、何かを得ようとするのであれば、その資料に書いてある手順によって、どんなことが起こるのか、またその資料が何を伝えたいのか、自分自身がどういった手段を取っているのか、その結果、どういったことが発生したのか‥‥自分なりに頭の中で考えながら、自分自身の中に落とし込んでいかないと、全く身につかない。

前述の通り、新しいことを学ぶ手段は今の時代にはいくらでもありますが、それを使って学習に取り組む人が、 自分なりに頭の中で考えながら、自分自身の中に落とし込んでいく姿勢がなければ、全く役に立たず、その人も研鑽をすることは困難でしょう。

この状態、「受け身(受動的)」という言葉があてはまります。
対になる言葉だと「能動的」ですね。

この状態が必ずしも悪いことはなくて、一緒に考えながら学習を補助してくれる人がいる状態が作れれば良いと思います。

ただ、「学習を補助してくれる人がいる状態を作る」というシチュエーションは、「受け身」では作れません。

また、「学習を補助してくれる人がいる状態を作る」が見つかったとしても、そのあとは学習したい側が「受け身」になってもいいということもありません。

ここまでを振り返ると学習を行うには能動的にならなければならないということになりますが、これがまた難しいものです。だから、どうしても受け身になりたくなってしまう。

受け身になってしまう理由としては、能動的になりにくい要因が潜んでいると思います。

社会人の自己研鑽が目的であれば、日頃の仕事で頭を使って、いざとなって自己研鑽をしようとしたときに、疲労困憊してしまっていて頭が回らないとか、そもそも自己研鑽の開始地点のベクトルがズレている(能動的になりにくい、自分に合わない学習方法をしようとしてしまっている)といったことがあげられると思います。

自己研鑽などを行う側として心がけたいことは、自分自身がいかに能動的かつ積極的になって自己研鑽できるかを考えながら、ブラッシュアップしながら、行動していくことが大切だと思います。

反対に、自分に合わないと思った資料や書籍だったり、補助してくれる人がいたりした場合は、著者や手伝ってくださった人との相性が合わなくて、自己研鑽が進まなかったということが発生することはあると思いますが、それを著者や手伝ってくださった人のせいにしてしまうのは、他己責任になってしまい、「あまりよくないかな」と思います。